進化するジーノ・パオリ

      

 昨日から、ずーっとずーっと、Gino Paoli ジーノ・パオリを聴いています。この間イタリアで買ってきた、パオリの3枚組みのCD。これがなかなか考えさせられるのです。ジーノ・パオリの若い頃、1960年あたりからずっとここ最近までの彼の歌が、だいたい古い順に、わんさと入っているもので、まさにパオリの、人間としての進化を見るように聴いています。
 彼の歌は、絵でいうところの、ヘタウマ、というやつだと思います。声もガサっとして耳障りの良い声ではないし、わからない人が聴いても、これのどこがいいの?と言われかねないので、私は人には勧めませんが、個人的には神様だと思っています。
 若かりし頃の彼の歌は、血気盛んというのか、やんちゃというのか。おそらく言葉に対する思い入れが強いために、感情が先走り、声も音楽も破綻をきたす場面が多々ありますが、それが彼の歌の特長となり、味に転じているところは、やはり才能だと思います。
 それがどんどん年を重ねるにつれて、とんがっていた部分が柔らかく丸くなり、音楽と言葉と声と気持ちと、すべてのバランスが上手くとれてゆき、どんどん渋みが増していく。彼の歌が経年変化していく過程を聴けるのが、この3枚組みディスクのおもしろいところ。今が盛りとばかりに、みずみずしく咲いていた花が、色褪せて、萎れて枯れていく様子をみるようで。そして私は、その枯れていく姿のほうにこそ、むしろ魅力を感じてしまう。人間は、老いという時代をむかえてからもまだ、これほどに進化し、充実するものなのかと、ただただもう、ひれ伏すばかり。聴けば聴くほど、噛めば噛むほど、味の出てくるスルメイカのような歌だと思う。この人の歌を聴くと、年をとることも悪くないな、と思う。
 よく歌は、しゃべるように、話すように歌え、と言われますが、それが実際どういうことなのか、本当のところの意味を、私は彼の歌をとおして知ったように思います。たぶんこれからもずっと進化していくであろう彼のような人こそが、真のアーティスト。