お宝映像

 夏の間は寝室として使っている和室が、例年のごとく、冬の今は物置化してしまっている。かなりすごい荒れ方だ。壊れた電子レンジ、これからの私の人生にはまったく関係がないと思われる、ショパンエチュードベートーヴェンピアノソナタなどの、膨大な量のピアノの楽譜、実家から届いただし用のいりこ、お歳暮にいただいたジュース、買い物に行った夫がお会計を済ませた後、なぜか袋詰めするのを忘れてそのまま持って帰ってきてしまったスーパーの買い物カゴ(←そのうちきちんと返します、ハイ。)などなど、あらゆるジャンルの品々が、無造作に置かれた、そこはちょっとした無法地帯なのである。
 その一角で、この間から夫が、テレビにビデオやDVDの機械をつないで、何やらひとりでやっているのだった。訊くと、ずっと昔に録画したビデオを、DVDに落とす作業を、ぼちぼちと始めたらしい。
 それで今日やったダビングは、1974年に来日した、マリア・カラスと、ジュゼッペ・ディ・ステーファノのコンサート。マリア・カラスは77年に亡くなって、事実上、この東京でのコンサートが、彼女の最後の公演となってしまったらしい。
 このときカラスは、もう全然 acuto(高音)が出ないのだった。声の衰え・・・。CDやなんかを散々聴いてしまって、絶頂期の声が耳に残っているだけに、なんかやっぱり、哀しいというか、こういうのを観るのは、聴くのは、とてもせつないのだった。
 ディ・ステーファノは・・・この人は・・・この人のテクニックは、果たしてこれで良いのだろうか?どの音をどう歌っても、いつもAperto、いや、それどころかApertissimo だ。歌を聴いているのではなくて、怒鳴りつけられている感じ。もう誰も止められない状態なのだった。この人の声には、Passaggio が存在しないのだろうか?いや、おそらくPassaggio を無視してすすんでしまったら、それでもそのまま声が出せてしまった、というタイプの人なのだと思う。そのおかげで、声にも音楽にも、品格とか、intelligenza がない、と思う。夫に、この歌い方は、この声の出し方は、テノールではありなのか?と訊くと、この人はこれで売れたんだから、それでいいんじゃない?と冷ややか。そのうち、だんだんと、吉本新喜劇でも観ているような気がしてきて、最後はもう夫と二人、大爆笑。
 ともかく、年寄りのコンサート、という印象をぬぐえない映像を観ながら、私がとても気になった、あるいは気に入った場面。

    

 本番前、NHKホールの舞台袖で待つ、マリア・カラス・・・の前に置かれたポットが、とてもとても、懐かしい昭和なのだ。柄とか雰囲気からして、きっと象印だろう。このあと椅子から立ちあがったカラスは、象印のポットの横で十字を切って、ステージへと向かった。

 予定のプログラムが終わって、アンコールの前に、観客からもらったものすごい量の花束が、グランドピアノのふたの上に置かれて、とても華やかなのだった。
が、それはいい。それにつづいてのアンコールで歌うマリア・カラスの背後に注目してほしい。
    

グランドピアノのふたの上に、花束に混じってガラスのケースに入った博多人形がある。誰だ?マリア・カラスに花束ではなく、博多人形を贈ったのは?(余談だが、夫のコンサートのときなども、楽屋見舞いとしていろんな方からいろんなものを頂戴し、だいたいはお花や甘いものなのだけど、中には、「はて、これは?」と思うものをいただくことがあるが、けっこうそういう?な贈り物をするセンスは、我が家においてはウケが良い。)すでにアンコールのプッチーニでは、まったく声の出ないカラス。しかしそんなことはもうどうでもよくて、私の目は、この一風変わったプレゼントに釘付けとなる。
 アンコールの最後の曲は、オペラ愛の妙薬の二重唱。曲が終わりに近づくと、カラスはピアノの上の花束のなかから、赤いバラを一本手にとった。そして曲の切れる瞬間、今度はディ・ステーファノが・・・
     
これはいったい何ぞや?という表情で、例の博多人形の入ったガラスケースに手を伸ばし、それをそのまま大事そうに抱えこんで、カラスと共に仲良く舞台袖へとハケていった。
    
 どうやらあのプレゼントが気になったのは、私だけではないらしい。