Viva Pavarotti

 
    
 朝っぱらから、パヴァロッティを聴く。とてもすがすがしい、晴れ晴れとした気分だ。そうだ、パヴァロッティは朝聴くのが一番かもしれない。とても健康的で、さわやかで健全で、ラジオ体操みたいではないか。これぞ、まさしくイタリアの太陽、誰もが抱く明るいイタリアのイメージそのものだ。
 いつだったか夫が、パヴァロッティの声の凄さは、距離感のなさだ、と話していた。生でパヴァロッティを聴いたとき、ずーっと遠くのステージでパヴァロッティが歌っているのに、まるで自分の顔面スレスレのところで、パヴァロッティが大口をあけて歌っているような声だったという。私は生で聴いたことがないのだけれど、それを聞いて、ものすごくその声の臨場感みたいなのがわかる気がした。
 私がパヴァロッティを聴いて感じるのは、輝くばかりの声と一緒に、いつもあの親しみの持てるヒゲ面が見えてくる、ということだ。声がいつも顔をともなっているのである。そんな風に歌を聴く歌手は、パヴァロッティマリア・カラスくらいだろうか。御三家とよばれる、DやCを聴いても、こんな現象は私には起こらない。ただ声を、音楽を聴くだけで、顔なんかどれがくっついていようがいっこうに構わない。でもパヴァロッティの声には、絶対あの顔でなければ、と思う。カリスマ性というのは、こういうことなのだろうか。
 2007年9月6日。気温7度、9月の初めだと言うのに、おそろしく寒い朝だった。グッビオのホテルで目覚めた私が、寝ぼけまなこのままテレビをつけると、ニュースはパヴァロッティの訃報を伝えていた。こんなニュースにイタリアで接してしまうなんて。
 その日は、ペールージャを経由して、トスカーナの古都コルトーナへ。ニュースはあっという間にイタリア中をかけめぐったらしく、昼間、コルトーナでちらっと入ったバールや、通りすがりの店のテレビから、何度パヴァロッティの♪Vincero'〜♪が聞こえてきたことか。(Vincero'とは何ぞや?とおっしゃる方。プッチーニのオペラ「トゥーランドット」のテノールの有名なアリアのフィナーレです。と、この説明でもまだ?な方。荒川静香さんの、イナバウアーの曲のフィナーレ、と言えば、お分かりいただけます?)
 その夜、泊まったホテルの部屋で。パヴァロッティのオペラやコンサート、昔の3大テノールなんかを、ずっとテレビでやっていた。パヴァロッティの死を悼み、夜遅くまでボリュームをあげて聴き続けた、忘れもしないパヴァロッティ追悼の夜。パヴァロッティの亡き骸が、彼のふるさとモデナに帰ってきたとき、彼を涙ではなく、拍手でむかえていた故郷の人たち。なんと素晴らしい人生の最後だろう。
 くもりの日、雨の日、気分が落ち込んだとき、めげたとき、パヴァロッティを聴こう。ちっぽけな悩みなんぞ、パヴァロッティの歌が、吹き飛ばしてくれる。音楽とは、そういうためのものなのだ。