静けさの入り江

    

 その人が人生の中で、長く暮らすようになったり、訪れたりする場所との間には、縁のようなものがあって、大袈裟に言えば運命のように、生まれたときから、ちゃんと人と土地が結びつくようになっているのではないかと思います。
 10年以上前に、リヴィエラにヴァカンスへ行ったときのことでした。電車に乗って、昨日のブログに書いたチンクエテッレの村へ向かっていました。途中の駅で、セストリ・レヴァンテ、と停車していた駅の名前のアナウンスを聞きました。レヴァンテという、東方を意味する言葉の響きが、私の耳の奥に静かに残りました。窓の外の駅の風景は、ただ海が広がるだけで、ああ、この水平線の向こうに、太陽がのぼって沈んでいくのだな、と見たこともないのに、そのうつくしい朝焼けや夕焼けが、はっきりと目に見えるようでした。あれから10年あまり、ふとそのときのことを思い出しては、セストリ・レヴァンテ、と静かにその土地の名をつぶやいたりしていました。心の引き出しから大事な宝物を取り出して、そっとなでては、また元の場所に戻すように。
    

 今年の、まだ夏が始まる前のある日。突然、夫がイタリアの雑誌を見せながら、「今年はここへ行こう、セストリ・レヴァンテ。」と言ったのでびっくりしました。長いこと、私が誰にも言わずに大事にしていた町の名前を、いきなり夫の口から聞いたからです。彼はただぼんやりめくっていた雑誌の1ページの景色に、心を奪われていたのでした。



    
    

 Baia di silenzio 静けさの入り江とよばれる海があります。セストリの看板とも言うべき、風景です。しかし昼間は、静けさなど何処へ?というありさま。ヴァカンス地ですから、仕方ありません。
 でも夜は、本当に静けさの入り江の名がぴったりでした。うっとりしてしまうくらい、素敵でした。昼間とのギャップは、イタリアの懐の深さとでもいうのでしょうか、それだけじゃねえぞ、と言われた気がしました。
 ひとつだけ、私が長い間勘違いしていたことは、海だけが見える、ウソみたいな駅の風景は、セストリの駅ではなくて、隣の駅のものでした。セストリの駅はというと、なんの風情もない、フツーの駅で、どこでどうなったのか、記憶がねじれてしまって、隣の駅にセストリの名前がくっついていたのでした。