天才あらわる!

 昨日のブログに、予定していたY田さんとは別のY田さんが、レッスンにやってきたことは書いた。
 あのあと、頃合いをみてレッスン室に下りて行ったらば、とっても素敵なピアノが聴こえてくるのだ。作曲家でもあるY田さん、そういえばピアノの腕前は相当なものらしいと、以前彼女とお話している中で察したことがあったが、聴いたことがなかった。
 音が途切れるのを待って、ドアを開ける。やはりピアノの前にはY田さんが座っていらっしゃるので、すごくお上手ですね、と言うと、私のピアノは適当だから、なんておっしゃる。そして夫に、「先生、私、今日練習ができてないんです。なのでもしよければ、こうやってピアノを弾きますから遊んでいただけませんか?(カンツォーネの)曲の感じがつかめなくて、どんな曲なのか知りたい曲もたくさんあるので、歌ってください。」という展開になって、レッスン室はほとんど無法地帯と化した。
 たのしかったー、というか、すごかったー。Y田さんは初めて出会う才能の方だった。昨日彼女が弾いてくれたのはカンツォーネばかりだったけれども、どの曲も楽譜は一応ピアノの譜面台に置くものの、ほとんどそれを見ることはなく、ピアノの鍵盤にすら、ちらりと目をやるくらいで、歌う人の息づかい、間の取りかた、微妙に変化していくテンポ感やハーモニー、声の色、そういったものに集中しつつも、愉しみながら、音楽に身を任せながら、どの小節のどの音にも自由自在にアレンジを加え、いままでに聴いたことのない曲に変化させていく。とにかく彼女は楽譜に書いてある音は完全に無視で、「何よりもまず楽譜ありき」という教育を受けてきた私たちとは、どうやら頭の構造がまったく違うようなのだ。私たちが演奏する場合、楽譜から読み取った音を、脳から身体に指令を送って音や声を出すのだが、彼女はこれとまったく逆の作業をやっているのではないか。鍵盤の上で手が、指が、彼女が音を認識するよりも先に勝手に動いて、それによって聴こえてきた音に彼女の耳や脳が刺激されて、さらに次の音がうみだされ、音へ音へとつながっていくような、そんな音楽の運び。「この曲、私、知らなーい。ま、でもいってみようか。」みたいな感じで、たとえ彼女にとっては初めての曲でも、魔法のように見事にアレンジされて、お化粧されて、私たちにとっても初めて聴く曲みたいになる。
 「(カンツォーネなんかの)メロディーがはっきりした曲って、ぱっと楽譜見たらだいたい頭に入るじゃない。その楽譜に書いてある音をそのまま弾くのは、私はぜったい嫌なのよ。だけどこんな風な弾き方だから、もう一回同じように弾くっていうこともできないんだけど。」と言う。同じように弾けないんじゃなくて、弾きたくないんだと思う。というか、そのときどう弾いたのかも、そんなことは彼女にとってはどうでもいいことなのかも。そんなふうに自由に音楽をやりたくても、凡人にはそれが出来ないんだよ。楽譜上の音をただ再現することに、じつは私も何年か前から飽きてしまっていて、楽譜と違うことをすれば自分だけのものが出来るんじゃないか、と思っても、彼女のようにあふれ出てくるものがないから、私にはどうにもならない。それにもしアイデアが出てきても、私の場合はやっぱりそれを楽譜に直してしまうと思う。やっぱり彼女とは頭の作りが違う。
 これまで彼女の歌しか聴いたことがなかったので、どうってことのないY田さんだったが(失礼。)、突然、私のなかのトップステージに浮上した。もっともっとお近づきになりたい人物。