アッシジの山道

     

 ただ祈るために、人はこの地を訪れるんだ・・・祈る習慣などまったく持たない私としては、そのことに深く感心してしまったアッシジの旅。その祈りの街のシンボル、サン・フランチェスコ教会。近くからではカメラにおさまらなくて、ぐーーんと教会の向こうまで走っていって撮った、気合の一枚!

 今から20年ほど前の1992年2月のこと。今日、ン十回目のお誕生日を迎えたFumiちゃんと私は、二人にとって初めての異国の地であった混沌のローマで、いろんな恐怖やカルチャーショックの洗礼を受けたのち、次なる旅の目的地アッシジへと向かった。

     


 1泊1人1800円!という安さにひかれて泊まった宿(上の写真)での滞在は、やはり「快適」というにはほど遠かったものの、ま、分相応ではあったと思う。しかもこの宿、古代ローマ劇場のなかにある、というとてもおかしなロケーションで、裏にまわるとたしかに円形劇場を彷彿とさせる半円に広がる石壁のなかに建物が立っていた。
     

 そのアッシジ滞在の折の忘れられない出来事。とても寒い日の夕方、日もすっかり落ちて、今にも雪が降りそうな、強い風のなか、手元にお水がないことに気がついたFumiちゃんと私は、水をもとめて街の中心へ向かうことにした。今ならそんなもん、宿の人に頼んで売ってもらえば済むだけのことなのに、そんなことすらまだまだ考えが及ばない、ヨーロッパ数日目の初心者ども。

 雪こそ降っていなかったと思うが、目を開けていられないくらいの強風の吹くなかを、暗さと凍えるような寒さで心細くなりながら、坂道を降りていった。お店のほとんどはもう閉まりかけていて、そのために余計に焦りを感じながら、とにかく食料品店がないか探す。

 すると、坂道を私たちと反対方向から上がってきた日本人の女の子ふたりが不意に目の前に現われたので、びっくりした。むこうのふたりも同じように驚いていて、ほとんど同時に、どちらからともなく声をかけたと思う。お互い、「またどうしてニホンジンが、こんな時間に、こんな寒いなかを?」と。

 「私たち、今晩飲むお水がなくて、今、買いに行くところなんです。」とこちらが答えると、イタリアを旅行中だという姉妹は、自分たちも今、お水を買って宿へ帰るところで、開いているお店がもうすぐそこにあるから、大丈夫だよ、と教えてくれた。安心したところで、強風のなかでの立ち話。

 アッシジの城壁を出て山道をずーっと行ったところにあるという、彼女たちが泊まっているオステッロ(ユースホステル)のすぐ隣りに、薪をくべた暖炉で、お肉や野菜を焼いて食べさせてくれる食堂があるから、明日のお昼をそこで一緒に食べませんか、と誘われる。姉妹は、オステッロへの行き方を説明してくれながら、「ただ、来る途中、アスファルトの道も終わって、本当の山道になって、道なき道を行かなければならないから、きっと不安になったり、怖くなったりすると思うの。そのときはムリしないで、引き返してくれていいからね。約束の時間にあなたたちが現われなかったら、もう来ないんだ、と思って待たずにごはん食べちゃうから、ぜんぜん気にしないで。」と、何度も言う。

 どんなところだろう?薪の暖炉の火で焼いたソーセージなんて、想像するだけで美味しそうだ。ほんとにそんなに遠いのだろうか?山の中で迷子になったりするのだろうか?でも、でも、なぜだかそのオステッロや、食堂とやらに、行ってみたい。

 翌日、この計画は実行された。ははは、所詮、金はなくとも時間だけはある学生の貧乏旅行なのである。(←残念ながら、現在の自分も大差なし。)

 私たちの泊まっていた、ローマ劇場ホテル(仮名)のすぐ横の道を進み、城壁の門を抜ける。姉妹に言われたとおりの分かれ道にさしかかり、「たぶんその分かれ道で、すっごく左に行きたい、と思うかもしれないけれど、私たちを信じて右の道を進んで。」と説明されていたとおり、右の道を行く。(あそこを左へ向かう道は、おそらく、聖フランチェスコが祈りのためにこもったといわれる、エレーモ・デッレ・カルチェリにつづくのではないか。だからきっとそちらのほうはいく分整備されていて、進みたくなる道なのではないか。)

 さらにその先にもうひとつ、分かれ道があったような気もするし、なかったような気もする。そしてたしかに私たちふたりは、けもの道の途中で、案の定不安になった。「昨日の人たち、怖くなったら帰ってもいいって、言ってくれてたよね・・・」というような言葉を交わした気もする。本当にこの先を行けば、オステッロや、暖炉の火で料理したご馳走を食べさせてくれる場所があるのだろうか?

 どれだけ山道を行っただろうか。しかし姉妹の言葉は正しかった。山というか、森のなかのような雑木ばかり、思っていたところに、突然少し開けた土地があって、そこに食堂らしき山小屋のような店を見つけて入った。隣りには大きめの建物の、オステッロもあった。その後めでたくまだ誰なのかも知らない人たちと再会を喜び合い、4人で食事をし、いろいろしゃべったりもしたと思うが、あんなに楽しみにしていた食事の内容も、肝心の料理の味も、会ったばかりの知らない人と何を話したかも、まったく覚えていない。そのふたりの姉妹が、どこの誰だったのかさえも、最後まで訊くことがなく終わったのではないか。今にして思えば、このときの可笑しな行動そのものが、夢のなかの出来事であったような気がする。

      


 それから何年か経って、この話をある人に話したとき、その人は「ああ、そのオステッロなら、僕もよく知ってますよ。」と答えたのだった。

      


 私にイタリアの言葉を教えてくれたその人は、それこそアッシジのサン・フランチェスコを地で行くような穏やさをたたえた人だが、ずーっと昔、アッシジの近くの山のなかに暮らしていた時期があったそうだ。その頃、たまたま旅行に来ていて、このオステッロに宿泊していた女性と知り合った。彼女に会うために、自分は毎日何時間も山道を歩いて、このオステッロに通った、と。
 その後彼女と結婚したその人は、のちの人生の何十年という時間を、日本で送ることになった。