語学のこと

     

 昨夜は嵐の一夜だったようで、ときおり窓にに打ち付ける雨粒や激しい風の音でふと目が覚めたりしました。今日は今日で名古屋地方、お昼には雨があがるという予報とはうらはらに、いっこうに止む気配がなく・・・薄暗い部屋で、冷たい雨音を聴いております。

 秋の夜長とはよく言ったもので、日の短さを感じると同時に、その分ほんとに夜が長いと感じています。たとえば夕食の片づけを終えたあと、「どっこいしょ。」(←ちゃんと声に出して言います。)とソファーに身を置けば、さて、これから何をしよう?と、考えてしまいます。テレビを見たりもしますが、なんだか最近はテレビの音を聞くだけでも疲れてしまうので、ついつい本に手がのびたりしまして、なるほど、読書の秋かあ、とここでもまた季節について、うまく言い当てたものだなあと、感心したりなど。

 今読んでいるのは、この前イタリアで買ってきた、ナターリア・ギンズブルグの Lessico famigliare。 「ある家族の会話」というタイトルで、須賀敦子さんが翻訳されていますが、これを原文で読んでいるので、わたくしの場合、かなり時間がかかっております。(大汗)もちろん辞書を傍らに置いての、読書というよりは、何というか勉強チックな感じになってはいるのですけれども、この年になると、なかなか頭を使うことはしなくなり、退化しているのは、目に見える身体部分のみならず、脳のなかまで明らかと思われますので、ま、自分のリハビリのために、と。自力で解らない部分は、須賀敦子さんの訳本を頼っているのですが、そういうフレーズは日本語で読んでも解せなかったりして、もうこれは、自分の知的レヴェルの低さ、とでもいいましょうか、これまでの人生をどうのように生きてきたのか?みたいな根源的なもので、もうどうしようもないことだなあ、とあきらめたり。

 先日、大学院の試験を終えたひとりの生徒さん。結果はまだわからないのですが、歌はともかく、音楽史の論文と、語学の試験を終えたあとのその落ち込み様が、それはもう笑えるほどであったと夫が申しまして。私もその生徒さんのことを知っているだけに、その落胆の様子が簡単に想像できてしまうので、おばちゃんとしては、何ともほほえましいというか、かわいらしいというか。

 語学というのは、歌を志す人にとってはずっとついてまわるもので、特にイタリア語に関しては、オペラ歌手はしゃべれて当然、なところがありますね。今度アメリカ人のオペラ歌手の方と会食することになったと言う夫に、「で、大丈夫?」と訊いたところ、「だってむこうもイタリア語話せるもん。」と、結局そういうことなのでしょう。(ちなみに英語が話せないことは、夫、まったく恥じておりません。)

 さてその夫に言わせれば、私のイタリア語は、「ほぼライフワークになっとる。」とこのこと。「だったら、はよせなライフが終わってしまうやんっ!」と自分で自分にツッコミを入れている私ですが、こんな雨降る寒い夜は、辞書を引き引き、またおぼつかない感じで読んでまいりたいと思います。

 ちなみに電子辞書は、私、使いません。たとえ残りのライフ時間が乏しくなっていようとも、やはりぺらぺらと辞書をめくる時間と労を惜しむようでは、語学の習得はムリ、とこれだけは自信を持って断言いたします。