幻の?!

 

 何年か前に観た、今はなきテレビ番組「世界ウルルン滞在記」の放送で、モレッケとよばれる幻のカニの存在を知った。
 場所は、ヴェネツィアの近くのキオッジャの町だった。そこへ一人の若い男性俳優(彼は最近もよくテレビで見かけるが、名前がわからない。)が、キオッジャに住む、漁師のおっさんのうちで何日か、寝食を共にしながら、この幻のカニを求めて漁に出る、という内容だった。
この男性俳優は小柄な人のようで、キオッジャの恰幅のいいおっさんに、「おい、ニホン語で、ちっちゃいヤツって何ていうんだ?」と訊かれ、チビ、と答えてしまったものだから、番組のあいだ中、おっさんから「チービ、チービ」とよばれ続けることになり、それ以降、我が家でも名前のわからない彼のことは、「チービ」とよばれることになった。
 このモレッケというカニがどうしてめずらしいか。脱皮して間もない、まだ新しい殻が固くなってしまう前のカニを捕らえて、軟らかい殻ごと食す、というのだ。おそらく殻が軟らかいままでいられる時間が、すごく短い間だから、貴重とされたのだろう。番組でも、ああ、今日も捕れなかった、次の日もまたダメだった、と延々引っぱって、とうとうチービが帰国する日になってしまったところで、タイミングよく捕獲となった。何日か過ごすうちに、すっかり心が通いあうようになったキオッジャのおっさんとの別れを惜しんで、涙をこらえながら、おっさんに料理してもらったモレッケを味わうチービ。(観ていてけっこうじーんときてしまったあのシーンを思い出すと、感極まって泣きながらカニを食べるチービには、その味なんてわからなくなっていたんじゃないかと思う。)

 で、先日のヴェネツィアで。私たちがいつもいくトラットリーアは、Al Ponte という店の名前のとおり、ほんとに橋のたもとにあって、なかなか雰囲気のあるロケーション。初めてここを通りかかったとき、うわっ!と店構えに一目惚れして入ったのだったが、それが大正解だった。
    

 話がそれた。この間もこのPonte に行って、席につく。メニューは一応持ってきてくれるけれども、メニューにはのっていない、本日のおすすめ、というのがあって、それはお店の兄ちゃんが口頭で説明してくれる。「えーと今日は、ズッキーニの花と小エビのパスタとか・・・それから・・・あ、モエケっていうカニもあるけど・・・」

 チービの食べたやつだ!と、夫と私がほぼ同時に叫ぶ。「そ、それ!!今日はそのカニ、ください。」

 で運ばれてきた料理が、じゃじゃーーん!こちら↓

   

 ・・・幻・・・にしちゃあ、ちょっと数が多くないか?皿をぐるりと取り囲んでいるが・・・
 が、それはまあよい。さっそく食べてみる。
脱皮したての軟らかい殻つきのまま揚げてあって、レモンをぎゅっとしぼっていただく、というシンプルなものだが、とーっても美味しい。殻ごと食べる香ばしい味も、そしてやっぱり何より、この不思議にやわらかな食感がこの料理の一番の美味しさだと思う。
 だから食べ方だって、普通にナイフとフォークで丸ごとのカニを切りながら食べるって、やっぱりありえないよなあ、と何だか食べながら、半信半疑。

 チービとおっさんは「モレッケ」と言っていたし、Ponte の兄ちゃんは「モエケ」と発音していたし、いったいどうなの?と思って、私の貧しい語学力では歯が立たない、伊伊辞典で調べてみました。
 単数形で、molleca あるいは mollecca 、どちらも正しいようです。二重子音をつまって発音しないヴェネツィア人にとっては、どちらの表記も同じこと、ということなのか?Ponte の兄ちゃんのモエケは、完全なヴェネツィア訛りだと思うし。
そしてmolleca の名は、 やわらかいという形容詞の、molle から来ていることに、深く納得。たしかにmolle という表現がぴったりくる感触でした。夫に説明すると、「なるほど。molle にカニの「カ」で molleca かあ・・・」とつぶやいておりましたが・・・(それは違う。)

 それにしても、このカニを「幻の」とよべるかどうかは、やはり疑問だ。隣の席に座った人にも、「今日はモエケっていうカニがあるけど。」と同じ説明をする兄ちゃんを見ると、あれはウルルンの番組が、過剰な演出をしたのではないかと疑ってしまう。あるいは、私たちが初めてそれを食した日が、大漁だったというのか?